淡 路 屋 の 歴 史
料亭「淡字」から駅弁屋「淡路屋」へ
駅弁の発祥の地である神戸。数少ない駅弁に関する記録によると、明治十年、神戸駅において駅弁は生まれたそうです。それから三十年近くのちの明治三十六年、淡路屋は駅弁屋を誕生させました。淡路屋の歴史は駅弁の歴史を語るに等しい。淡路屋の駅弁は神戸の駅弁として広まっていきました。
もともと淡路屋は、明治初期、大阪・曽根崎新地で「淡宇」という屋号の料亭を営んでいました。しかし、次代の寺本秀次郎が、新しいビジネスとして駅弁屋を思いついたのです。
いち早くから神戸の地において駅弁が売られ好評を博していたからでしょう。当時、ハイカラな英語教師をしていた秀次郎はこの外食産業に着眼したのです。
そうして、明治三十六年、当時の阪鶴鉄道(現・JR福知山線)の構内営業が認められ、大阪駅に拠点を設け、大阪~福知山間の弁当車内販売を始めました。翌年に池田駅、翌々年には有馬温泉の玄関口として賑わっていた生瀬駅などにおいても、駅弁を販売するようになりました。明治末期から大正初期にかけて、鉄道網は全国において急速に整備されていきました。この時代にのって、駅弁は鉄道の旅には欠かせない存在となり、人々の間に普及していきました。そうなると駅弁の差別化をねらう個性豊かな”ご当地弁当”が各地で作られるようになり、淡路屋ももちろんそれに倣いました。それが明治四十四年、秀次郎によって考案された「鮎寿し」です。
鮎寿しの登場
駅有馬温泉の玄関口として、また蒸気機関車の給水、給炭場であった生瀬駅。ここは武庫川の清流と木々の緑が自然の豊かさを醸し出すのどかな駅でした。この駅で売られていたのが名物の「鮎寿し」。武庫川でとれた鮎を姿造りの押し寿司にし、魚の形にした折に詰め、駅売りしていたこの地ならではの駅弁です。この「鮎寿し」はなかなか評判もよく、関西中に知れわたり、二代目・清蔵の代になってからも売れ行きを伸ばしていきました。
戦争が巻き起こす、食糧事情
ところが、時代が流れ、世の中は戦争へと突入していきました。戦局が悪化した昭和十九年には、駅弁の販売もとうとう開店休業状態にまで陥りました。そして迎える終戦。しかし、終戦直後の日本は食糧事情が非常に悪く、とても駅弁を造るどころではありませんでした。一時は休業したものの、再開したところで、駅弁の中身はほとんど野菜ばかり。もちろん、お客様からの苦情が寄せられました。そこで清蔵は主食に変るものとして小麦のふすま(皮)を思いついたのです。これを粉にして蒸しパンに仕上げ、野菜の弁当の主食として売り出し好評を得ました。そうして物のない時代を凌いできたのです。
神戸駅への進出
そんな時、国鉄当局から一通の手紙が届きました。それは生瀬駅から神戸駅への移転を打診したを記した内容でした。というのも、神戸駅で今まで販売していた駅弁屋が、戦災のため亡くなってしまい、淡路屋に話が持ち上がったというわけです。駅弁の本当の発祥の駅で、またいち早く復旧している神戸駅で商売ができる、清蔵は喜び勇んで神戸へと店を移したのです。
その後、高度経済成長を経て現在に至るまで、淡路屋は駅弁からいろんなアイデアを、いろんなカタチで発信していきました。一世紀にもおよぶ伝統を育んできた淡路屋。これからもその歴史は新しい未来へと続いてゆくのです。
明治三十六年創業 淡路屋の歩み
明治三十六年、淡路屋は産声をあげました。以来、五代にわたって受け継がれてきた駅弁業。その歴史は一世紀にも及びます。鉄道網の急速な発達、戦争、高度成長。時代が変化するなか、淡路屋はいつの時代においても、お客様のご要望にお応えするものを、と心がけてまいりました。おいしさを常に追及し、神戸の本物の味を多彩に盛り込んだ「肉めし」、また駅弁の常識を打ち破る「あっちっちスチーム弁当」をはじめ、さまざまなアイデアを味づくりに取り入れてまいりました。
暮らしのなかで欠かすことのできない “食”。それは人々のお腹を満たすことにとどまらず、五感で味わうものとしての存在にまで達してきています。
淡路屋は今後ますます広がるお客様のニーズを的確に捉え、駅弁から発信される味へのこだわりを活かしつつ、本物のおいしさを伝えてまいります。新しい時代を見据え、駅弁はもちろん、いろんな形で、食文化のパイオニアとして躍進していきます。
明治三十六年創業 淡路屋の沿革
明治初期 | 淡路屋卯兵衛、宇蔵親子は大阪曽根崎新地で料亭「淡宇」を営む |
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明治36年1903年 | 初代寺本秀次郎は、阪鶴鉄道株式会社より神崎(現尼崎)―福知山間の車内販売承認を受け、大阪駅に拠点をおき、鉄道構内営業を始める 初代秀次郎は、宇蔵の子で当時は珍しい英語教師 淡路屋創業 |
明治37年1904年 | 阪鶴鉄道池田駅構内(現JR川西池田駅)に食堂を開設 |
明治38年1905年 | 池田駅構内営業を廃止、有馬口駅(有馬郡塩瀬村)に転じる同駅にて構内立売の承認を得て、弁当、寿司、菓子の販売をする |
明治39年1906年 | 特殊弁当車内販売を開始。名づけて『淡路屋弁当』と称する |
明治43年1910年 | 帝国鉄道庁の指示により、車内販売は廃止となる。 山陰本線開通に伴い、園部駅構内立売営業承認を得て支店を開設 |
明治44年1911年 | 園部駅・生瀬駅にて『鮎寿し』を発売 |
大正8年1919年 | 生瀬駅構内営業を2代目寺本清蔵(秀次郎の子)が継承販売をする |
大正13年1924年 | 園部駅構内営業は、清蔵の義弟寺本乙次郎が継承し、独立 |
昭和8年1933年 | 宝塚駅前にて「淡路屋食堂」、「宝塚会館グリル」を開店 |
昭和19年1944年 | 東海道本線神戸駅、構内営業人が戦災により一家断絶となり、鉄道当局により神戸駅構内営業の承認を受ける。 生瀬、宝塚店を廃止、神戸駅前に本店を移設。 |
昭和22年1947年 | 神戸駅コンコースに売店を開設 山陽本線車内販売を開始 |
昭和24年1949年 | 株式会社に組織を変更。2代目寺本清蔵が初代社長に就任 |
昭和35年1960年 | 3代目寺本淳巳が社長に就任 |
昭和40年1965年 | 神戸名物「肉めし」を発売 |
昭和44年1969年 | 大鉄車内販売株式会社を設立。車内販売部門を移管 |
昭和47年1972年 | 新幹線開業に伴い、新神戸駅の構内営業承認を受け、ホーム・コンコースに売店を開設 そごう神戸店に売店を開設 同時に新幹線車内販売を開始 |
昭和52年1977年 | 4代目社長に寺本 滉が就任 大丸神戸店に売店を開設 |
昭和58年1983年 | 大丸梅田店に売店を開設 |
昭和62年1987年 | 加熱式弁当を日本で初めて発売 |
平成2年1990年 | 高島屋大阪店に売店を開設 |
平成3年1991年 | プロ野球オリックスの本拠地GS神戸に売店を開設 阪神百貨店に売店を開設 抗菌シート「ワサオーロ」をミドリ十字と共同開発 |
平成4年1992年 | 本社工場を神戸市東灘区魚崎南町に新築移転 |
平成7年1995年 | 阪神大震災のため、神戸市内全店舗休業 その後、水道、ガスの断絶の内、避難所用給食、復旧作業員給食を、日産2万食供給する JR西明石駅新幹線コンコースに直営売店を開設 |
平成10年1998年 | 明石海峡大橋開通記念「ひっぱりだこ飯」発売 |
平成12年2000年 | JR新大阪駅、大阪駅売店に納品開始 |
平成13年2001年 | 神戸ウイングスタジアムに、売店をオープン ワールドカップ公式試合に供食 |
平成15年2003年 | 淡路屋創業100年を迎える |
平成16年2004年 | 5代目寺本督が社長に就任 |
平成20年2008年 | JR京都駅に納品開始「京都牛膳」発売 阪神甲子園球場に売店開設 近鉄大阪難波駅に納品開始 |
平成24年2012年 | JR東京駅に納品開始 |
平成26年2014年 | 近鉄車内販売に納品開始 |
平成28年2016年 | JR城崎温泉駅に納品開始 |
平成30年2018年 | パリ リヨン駅で一ヶ月間臨時売店を開設 |
平成31年2019年 | アメリカポートランド、台湾台北駅で駅弁フェアを開催 、d> |
令和2年2020年 | 西神中央駅ショッピングセンターに売店を開設 |
令和3年2021年 | 高槻阪急・川西阪急に売店と新ブランド「櫻小路」を開設 |
令和4年2022年 | 千里阪急・西宮阪急・宝塚阪急に売店と「櫻小路」を開設 垂水駅・JR鶴橋駅・大丸芦屋店に売店を開設 東京工場稼働 |
令和5年2023年 | 三宮センター街に売店を開設 ラゾーナ川崎プラザに売店を開設 |